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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 1年生がんばれ  

 ゴールデンウィークは終わり、5月病の季節がやってきました。

 ゴールデンウィーク直後の朝日新聞に、最近は、一過性ではなく、一年中強いストレスを感じる人が多く、5月病は死語になりつつあるという記事が載りました。

 多くの人が、一年中、心が休まらない生活を強いられるのは、日本の社会では、人と人との関係が正常に作動していないということだと思います。

 誰もが社会とうまくやっていけないと感じる今の世の中で、とりわけ、うまくいかないことのストレスを感じているのは、外国にルーツのある子ども達でしょう。

 彼らは、未経験の出来事を予想する環境に恵まれていません。また、家庭内で日本の社会に順応するための訓練も受けていません。

 そのため、様々な規則によって成り立つ学校は、そうした子ども達にとっては適応が難しいところです。

 それでも、3月の終わり、外国籍の女性たちから、「うちの子、1年生になるの」と、はずんだ声での電話をたくさんもらいました。

 どのお母さんも、言葉も文化も違う日本で、苦労して育てた子どもの成長を誇らしげに話してくれました。

 そんな1年生の何人かをここで紹介します。新しい環境に早く慣れ、学校が楽しいところになるようにと願っています。

 街で見かけたら是非、よくがんばっているねと褒めてあげてください。

☆Aくん、保育園を卒業して1年生になりました。

 Aくんは、日本でフィリピン人の母と、日本人の父の子として生まれました。しかし、Aくんが2歳の時に、両親は離婚し、離婚後、フィリピンにいる祖母のところに預けられました。

 ところが、その2年後、4歳の時に、再び、日本に連れ戻され、母と同居をすることになりました。

 母が在留資格のないフィリピン人の男性と再婚し、その男性が入管に出頭するに当たり、身元保証人である母が、日本に在留する要件を整える必要があったのです。

 入管出頭から2年後、今年3月初め、母が再婚した男性は無事に在留資格を得ることができました。

 
 そして、今年3月初め、その男性の在留が許可されました。母は大喜びで入学式の準備に取り掛かりました。

 私にも電話があり、「入学式にはかせる靴下の色は白がいいの?それとも黒?」と聞かれました。「普通は白」と答えたら、うれしそうに、「じゃあ、白の靴下を買うね」と言って電話を切りました。

 新しく買ってもらった白の靴下で参加した入学式は思い出に残っていることでしょう。生まれてからずっと母に人生を振りまわれてきたAくんが、早く学校に慣れ、楽しく通えるようにと願います。

 そして、また再び、母と別れて暮らすことなく、母と新しい父の愛情を受け続けることができるようにと願います。

☆小学校4年生に来日したBさん、高校に入学しました。

 フィリピンで生まれてすぐ、両親は別れてしまい、母はBさんの養育費の送金のために日本に移住しました。母が日本に移住した後、母は日本人の男性と結婚し、5歳違いの弟が生まれました。

 
 しかし、母は弟が生まれて半年も経たないうちに離婚し、シングルマザーになりました。生活が苦しく働き詰めの母は、ほとんど帰国しなくなり、電話もたまにしか、かけてこないようになりました。

 母を慕いながらも、自分を置き去りにした母を許せない気持ちも強くなりました。

 ところが、5年前、Bさんが10歳の時、ようやく生活が落ち着いた母は、一緒に生活するために、Bさんを日本に読んでくれました。

 来日後、日本の小学校の4年生に編入しました。しかし、大人しい性格のBさんはなかなか日本の学校に慣れませんでした。

 フィリピンでは英語が得意で成績優秀だったBさんも、日本の学校の授業内容は全然わからず辛い思いをしました。小学校を卒業するまで、特別扱いで従業を受けていたために、友人もあまりできませんでした。

 しかし、中学校に入学し、部活でバスケットを始めたことで、友人ができ、学校にもなじむことができました。友人との会話もまったく不自由しなくなりました。

 それでも、やはり、志望校に合格するためには、友人の2倍3倍の勉強が必要でした。

 部活が終わって帰った後、毎晩遅くまで勉強しました。毎日朝練もあり、身体はくたくたでしたが、母から、学校の成績が下がったら部活を辞めるようにと言われていたので、頑張りました。

 そして、この春、私立の高校に進学しました。県立の第一志望は落ちましたが、私立の第二志望に合格しました。

 私立ですが、進学校なので、授業についていくのは大変です。でも、高校は部活をやらず勉強に集中するので大丈夫と話してくれました。アルバイトも頑張り、母が借りた入学金を自分の力で返済するそうです。

 高校生活が楽しみと笑顔で話してくれたBさん。楽しい高校生活になるようにと願います。

☆母がフィリピン人の母子家庭に育ったCくん、この春、高校を卒業し大学生になりました。

 フィリピン人の母は、彼が4歳の時に日本人の父と離婚をしました。その後、母は仕事が忙しく、Cくんは、いつも家に一人ぼっちでした。

 そして、小学校3年生頃、母はフィリピン人の恋人を家に連れて来て、同居するようになりました。母の恋人の男性は、母にもCくんにも暴力をふるいました。

 とても怖くて、その男性がいなくなるように願っていましたが、母にその男性の悪口を言うと怒られるので、我慢していました。

 小学校を卒業する頃、その男性は警察に逮捕され、強制送還になりました。やっと落ち着いて勉強できるようになり、成績は伸びました。

 高校は経済的な事情でどうしても県立に行かなくてはならないため、私立を併願しませんでした。そのため、高校入試はプレッシャーで2回も落ちてしまいました。

 ところが、ほとんどの県立高校の入試終了後、最後に二次募集で受けた県立高校に見事合格しました。最後の入試でレベルの高い進学校に合格したのです。母は大喜びで、近所中に自慢して歩きました。

 高校は野球部に所属しました。進学校ですが、野球部も伝統があり強いのです。厳しい練習と野球部の費用を捻出するためのアルバイトが大変で、勉強どころか寝る時間もありませんでした。

 それでも、彼は大学に行きたくて、3校受験しましたが、失敗。でも、最後にまだ受験ができた県内の大学を受け、合格しました。

 外国籍シングルマザーの子で大学に行く子はかなり少ないのです。自分の力で人生を切り開いていくCくんがまぶしく見えます。

# by tanpopo-office | 2012-05-12 23:18 | 子ども

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 新年のご挨拶  

新年のご挨拶を申し上げます。

昨年は多くの方に依頼をいただき、本当にありがとうございました。皆様の笑顔が最高の励みになりました。

ところで、私は、やはり、3月11日の震災のことを忘れることができません。震災による原発事故により、今なお6万人以上の方が県外非難をされています。こんなに多くの方が移住しなくてはならない事故は戦後初めてであり、福島に住んでいなくても、過去の出来事として記憶から消し去ることはしてはならないと思っています。

自然と共生して有機農業をされていた方たちが、原発という自然と共生できない機械の事故により、農業を続けられなくなったという不条理は一生心に刻んで生きていきたいと思っています。
 
子どもの頃、アメリカは、雪が降る寒い冬でも、エアコンのおかげで室内は暖かく、Tシャツ1枚でいられると聞き、驚いたことを覚えています。しかし、都会に住む私の生活はいつのまにか、子どもの頃に聞いた話に近いものになっていきました。

冬でも、乗り物の中や、ビルの中はコートがいらない生活でした。軽いダウンコートを着ていれば、中は1年中あまり変わらない服装でいられました。夏もジャケットが必要でした。

でも、3月11日直後、駅の構内は暗く、エレベータやエスカレータが止まり、計画停電で駅前の商店街は暗闇の中に消えてしまいました。停電で暖房が使えず、暗く寒い時間を過ごしたことは、今までの便利さは危険と隣り合わせであったことを学びました。

そして、私は、震災以降、自分自身の仕事の社会的使命を考えるようになりました。今の日本の社会の中で、日々の生活に困っている方のために働きたいと強く思うようになりました。

そんな思いで迎えた今年、私自身がどれだけ心を籠めて、力を尽くして働けるのか試されていると思っています。言葉がわからず、法律がわからなくて、大きな壁にぶち当たり困っていらっしゃる方、どうぞご連絡yください。

婚約者の方がパスポートを持っていなくて結婚が難しいと考えていらっしゃる方、お連れ合いやお子さんを日本に呼び寄せたいと考えていらっしゃる方、恋人や身近な方がオーバースティで悩んでいらっしゃる方、どうぞご連絡ください。来年のお正月はご家族そろって明るい笑顔で迎えましょう。

安定して暮らしていくために、永住の在留資格を取りたい方、帰化申請を考えている方、どうぞご連絡ください。日本で築いた生活基盤をより強いものにするお手伝いをいたします。


どうか本年もよろしくお願いいたします。


# by tanpopo-office | 2012-01-03 03:01 | ごあいさつ

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 2011年11月11日の婚姻届  

2011年11月11日の昨日、ベトナム人のカップルが婚姻届を提出しました。

かなり以前から、11月11日に結婚をすると言われていました。そして、できれば11時に婚姻届を提出したいというので、10時過ぎに市役所に行ったのですが、残念ながら市役所は混んでいて、11時には婚姻届を受理してくれませんでした。

彼らが同居を始めたのは、今年3月11日です。あの地震の日、昨年の11月に離婚をして、1歳になったばかりの幼い子どもを一人で育てていた女性は、心細くて、少し前にスーパーで買い物をしていた時に出会った男性に電話をかけて彼女の家に泊まりに来てもらいました。

そのまま、男性は彼女の家に居つき、結婚することになり、11が三つ並ぶ日に婚姻届を出すことにしたのです。

何とも現代風の若者の物語です。しかし、彼らの生活は、普通の日本の若者とは大分違います。

彼は10年前に会社の出張で来日したのですが、来日した翌日の夜には、一緒に来日した同僚と二人でホテルを抜け出し、神戸市長田区に移動し、長田区の靴工場の2階に10年間住み続けました。短期滞在のビザで来日した彼は10年以上もオーバースティを続けているのです。

その後、長田の工場が倒産して、仕事も住まいもなくなったので、ベトナム人が多く住む神奈川に移動してきたのです。神奈川に来た後も仕事がなく、ビルの解体の仕事や、廃品回収・廃品再生工場に週に1~2日勤務して生活してきました。

疲れて倒れるほど働いて、一日の賃金は7~8千円。それでも、仕事があればよいのですが、ほとんど仕事がない。オーバースティの身でどうやって暮らしていたのかと思います。

今年3月からは、同じベトナム出身の女性と同居するようにはなりましたが、工員である妻の給料は11万円。地震後、ベトナムに連れ帰った子どもの養育費も送金しなくてはならず、生活保護世帯より厳しい生活です。

それでも、彼らは、結婚をして入管に出頭し、夫が在留を許可されれば、夫はガンガン働いて稼ぐから大丈夫と言います。ベトナムから子どもを連れてきて、3人で暮らすという計画も立てています。

しかし、言葉が不自由な外国籍の彼が、ガンガン働いて稼げる仕事に就けるかどうか不明です。

彼はベトナムで軍隊に入隊した経験があり、ベトナムではエリートの方です。でも、ベトナムより日本の方がいい?と聞くと、日本の日給はベトナムの月給以上だから、帰国なんかしないと言います。

でも、彼が生活しているのは日本です。生活保護世帯以下の収入では、飢えずに生きている方が不思議なくらいです。

国籍に関わりなく、日本人と同様の賃金を払うと企業は倒産し、外国人労働者は働く場がなくなると言われています。移住労働の問題は、彼らが来日し始めてから30年経つのに解決の糸口が見えません。

11が三つ揃う100年に1度の日に結婚をしたカップルは多かったと新聞に書いてありました。地震の後、結婚を決めたカップルも多かったそうです。彼らも、そんな若者の一人です。

彼らがベトナムから呼び寄せたいと思っている1歳のお子さんが大人になった時、日本の若者も、ベトナム若者も、同じような賃金で同じような生活ができるようになるのでしょうか。




# by tanpopo-office | 2011-11-12 01:02 | 結婚

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 パートナを家に帰して  

 パートナーの男性が入管に収容されている女性たちから、パートナーを家に帰れるように助けてほしいとの依頼が3件続きました。3件とも、同国人同士のカップルです。

 3件のカップルは、パートナーの警察逮捕または入管収容時は、まだ結婚していなかったので、急いで、本国から書類を取り寄せ結婚の準備を始めました。結婚をして、法律上の夫婦にならないと、パートナーの帰宅は難しいのです。

 日本で、外国人同士が結婚する場合は、結婚をする当事者の本国法に従った書類を日本の自治体に提出します。しかし、外国の法律を適用するのですから、日本の自治体に裁量権はなく、厳格な手続きが求められます。

 そうは言っても、婚約者である女性が収容されている男性の代わりに、男性の出身地の役所に書類の発行を申請しても、役所はそんなに親切に対応してくれません

 その上、途上国の役所から書類を取り寄せるのは、時間もかかるし、発行手数料も高額です。急ぎの発行の場合、1通の書類の発行手数料が数千円かかります。こうした困難を抱えながらも、一日も早く手続きを進めなければパートナーを取り戻すことはできません。

 入管による日本への在留許可の可否の判断は収容から1ヵ月で下されます。それでも、在留を希望すれば、その後1ヵ月間は地元の入管に収容されているので、面会が容易ですが、2ヵ月後に在留の理由なしという判断が出れば、牛久の入管収容センターに身柄が移されます。

 牛久は交通の便が悪いので、面会に行くのは困難です。親族、友人の面会がほとんどない中で、在留を希望すると入管に訴え続けることはかなり大変です。なので、とにかく早く手続きを進めなくてはなりません。

 一方で、結婚を成立させるために、本国の役所に発行を申請する書類についての詳しい情報をほとんどの人は持っていません。その上、大使館はオーバースティの人が婚姻を成立させるための支援は一切しないのです。

 ベトナム人女性は、パートナーの独身証明書を取得しましたが、取り寄せた独身証明書は、彼が独身である期間の日付が空欄になっていました。

 しかし、出生日からベトナム出国時までの日付、または独身証明書発行申請日までの日付が明記されていて、「上記の期間は婚姻の登記がない」、との記載がない証明書では、残念ながら、日本の役所では独身証明書としては認めてもらえません。急いで、再発行依頼をしました。

 フィリピン人女性の場合は、日本人男性と離婚した後の再婚なので、フィリピン本国から彼女のすべての婚姻記録が記載されている報告書を取り寄せ、さらにフィリピン大使館発行の婚姻状況宣誓供述書を添付する必要があります。

 婚姻記録報告書は、多くのフィリピン人は見たことも聞いたこともない書類です。彼女も、そのような書類が必要との情報はな、くパートナーが収容される前に準備していませんでした。そのため、日本の自治体の窓口に婚姻届を提出した後、婚姻が成立せず、法務局での受理伺いになってから、大急ぎで、本国の妹さんに頼んで役所に足を運んでもらい、やっと手に入れました。

 書類取得費用に加え、入管へ通う交通費、収容されているパートナーへの差し入れなど、支出はかさみます。その上、パートナーを励まし、自分自身も厳しい入管の口頭審査を受けなければならず精神的な負担も大きいのです。

 こんな困難な仕事は、よほど強くしっかりしていないとできません。普段は収容されているパートナーに支えられて生活しているのに、パートナー収容後は一人で何もかもしなくてはなりません。

 困難さに、彼女たちの心が折れませんようにと心配しつつも、つい、早く、早くとせかしてしまいます。

# by tanpopo-office | 2011-08-20 21:36 | ビザ

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お義母さんがフィリピンから帰らない  

夫から激しい暴力の被害に合い、さらに、夫の家を出て別居中に幼稚園から下の子を夫に連れ去られ、そして離婚調停では、下の子の親権者を夫とする離婚の審判確定。これでもかと続く、苦難の連続だったフィリピン人女性から電話があり、相談があるので会ってほいしと、2ヶ月ほど前に呼び出されました。

また、何か問題があるのかと思い、会ってみたら、何と、勤務先の社長さんと結婚をするとのことでした。勤務先の社長さんも、一緒に同席していて、結婚するに当たり、経営不振の工場はたたみ、一技術者として再就職して家族を支えますと、言われました。娘を嫁に出すような気分になりました。

その後、どうしているかと気になって電話をしたところ、新しいパートナーは、まめに家事をこなし、妻の役所などの手続きを助け、そして本業でも、ほとんど休みも取らずに、張り切って働いているとのことでした。彼女も、パートナーが経営していた会社の仕事で覚えたハンダの腕を買われて、新しい就職先が見つかったそうです。

絵に描いたような幸せを手に入れた彼女の話を聞きながら、ところで、お義母さんは元気?と聞いたところ、お義母さんは、フィリピンに行ったきり帰らないということです。

昨年夏ごろ、彼女の母が来日し半年ほど滞在した時に、彼女と一緒に仕事をしていた社長さんの母に会い、仲良くなったそうです。そして、今年のゴールデンウィークに、家族でフィリピンの彼女の実家を訪ね、日本に戻る時に、彼女の母が夫の母を引きとめ、夫の母も仲良くになったフィリピンの家族といたいと、そのままフィリピンに残ったとのことです。スカイプでお義母さんと話すのだけど、フィリピンは楽しいから日本に帰らないと言って困っていると、彼女は言います。

国際結婚は難しいといいますが、国際結婚だから難しいのではなく、日本人同士の夫婦でも、互いに相手の文化を理解し合い、助け合う努力をしなければ、良い夫婦関係は作るのは難しいです。このご夫婦は、双方とも40代半ば。それぞれが苦労を重ねた末に、夫婦円満の秘訣を習得したのでしょうか。

# by tanpopo-office | 2011-06-08 01:37 | 結婚

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ベトナムでマージャン屋を開く  

昨年暮れ、ベトナムに強制送還されたパートナと同居するために、先週末、ある日本人男性がベトナムに旅立ちました。

彼のベトナム滞在はこれで二度目です。最初は、パートナの帰国後すぐ、今年1月に来越しました。3ヶ月間のビザの期限が過ぎ、帰国後、彼に電話をしてベトナム生活の感想を聞いたところ、「言葉が通じないから、何もできない。ただ、毎日、遊んでいたよ。つまらかった。もう行きたくない」ということでした。

それから、約2ヶ月、彼は、次回の滞在の際にすることを一生懸命考えたようです。そして、出発する前日、私に電話をかけてきてくれて、「ベトナムですること考えたよ。妻の村の人にマージャンを教えるんだ。」と報告してくれました。彼は、村の人は、暑い日中、木陰でトランプやビンゴをして遊んでいるけれど、マージャンは知らないようだから、教えれば、きっと流行るよと言います。

今回は、とりあえず、マージャン牌だけ持って行き、妻を通訳にして村の人に教え、村の人が興味を持ってくれて、マージャンが広がったら、次は30万円くらいのマージャンゲーム機を持って行く計画だそうです。30万円のゲーム機を2台持って行けば、月100万円くらい儲けがでるかもしれないと、彼は、取らぬ狸の話をします。

南の国では、人々は、日の出と共に農作業を始め、太陽の力が強くなる朝9時頃には一旦作業を止めて家に戻ります。そして、涼しくなる夕方まで、人々は木陰で休んでエネルギーを蓄えます。その休憩時間にするカード遊びやビンゴは人々の大きな楽しみです。突然村に住み着いた日本人の彼が、そんな彼らの中に入って、マージャンを教えれば、きっと村の人の歓迎を受けるでしょう。

事業が成功するかどうかわかりませんが、村の人と仲良くなるのにもってこいのチャンスです。せっかく長期滞在するのに、ただ、パートナと二人で、あちこち遊びに行くだけではつまらない。村の人と仲良くなれば、滞在も楽しいものになります。そんな風にベトナムの人と仲良くしている人が、妻の呼び寄せ申請をすれば、入国管理局も好ましく思うでしょう。

そして、もし、彼が夢見るように、30万円のゲーム機の元が取れるくらい儲かかるとすれば、日本で仕事を辞めてベトナムに旅立った彼は、そのままベトナムに住み着くかもしれません。そんな人生も面白いと思います。妻を日本に連れてきた後、日本風の家事が上手にできない妻にストレスを感じるより、ベトナムでのんびりと暮らすのもよい選択かなと思います。

# by tanpopo-office | 2011-06-03 01:46 | 異文化ワールド

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 引きこもり卒業!  

 23歳のフィリピン国籍の男性、高校卒業して半年後から引きこもりにもりになり、現在に至る。就労経験なし。そんな彼が引きこもり卒業に向けて動き出しました。

 きっかけは先月末に母が勤めていた居酒屋が閉店し、一家の収入が皆無になってしまったことです。弟は今年高校を卒業し、専門学校に入学したばかりです。このままだと弟も学校を辞めなくてはならなくなる、家賃も払えないと、彼の母から相談を受け、私は、生活保護申請を考えました。しかし、生活保護の申請の際には、まず間違いなく、彼がなぜ働かないのかという質問を受けるでしょう。その結果、心優しい彼は傷つき、ますます外に出られなくなるのではということが心配でした。

 それで、彼に職業訓練校入学を勧めてみました。介護とか、コンピュータ技術とか、学費を払わずに勉強できるよと勧めてみたものの、どうも気乗り薄。困ったなと思いながら、彼の興味のあることを探ってみました。すると、調理の勉強をしたいと言い出しました。

 彼は5年間、ほとんど家の外に出ない生活をしていますが、家族の食事は彼が作っています。居酒屋で少し調理をしていた母より、料理は上手だそうです。それなら、調理の勉強をしようと、一緒にハローワークに行きました。ところが、残念なことに調理のコースはありません。しかし、軽食喫茶のコースはあり、どうかなと、ハローワークの職員が聞いたところ、目を輝かせて、入学したいと言うのです。

 その日から入学申し込み締切日まで、4日しかありません。4日間の間に書類をそろえて申し込み、さらに学校での面接の申し込みもしなくてはなりません。まったく社会経験がない彼が、4日間で準備できるかと心配しながら、ハローワークで渡されたパンフレットを見ながら、できるだけ丁寧に、準備する書類の説明をして、私は彼と別れました。

 それから3日後、彼から電話があり、入学申し込みは終了し、面接の予約も済ませたとの報告を受けました。5年間も引きこもりだった彼が、突然動きだしたのです。結局、今まで、自分の興味あることを仕事につなげる方法がわからなかっただけだったのです。自分の未来を切り開く情報を得る機会がなかったのです。

 彼の父は日本人ですが、母は彼の父と結婚をせず、フィリピンで彼を生みました。また、父は認知をしなかったので、日本国籍を取得せず、フィリピン国籍のまま、14歳までフィリピンで育ちました。

 そして、彼の出生後、母は日本に戻り、父とは別の日本人男性と結婚しました、その後は、母の送金により、学費の高い私立の学校に幼稚園から中学まで通いました。ところが、彼が14歳の時に、母が離婚し、送金が難しくなったので、突然来日することになったのです。それでも、彼は、がんばって勉強をして、来日1年足らずで公立高校に合格し、きちんと卒業したのです。

 しかし、高校卒業後は進学もうまくいかず、就職も面接で落とされました。そして、社会と接することを避け、家に引きこもるようになってしまいました。母は、自分のせいで彼に苦しい人生を歩ませてしまい、引きこもりになってしまったと、自分を責めていました。

 彼の場合、苦しいことが重なり、社会と接することが嫌になったことも確かなのですが、一方で、日本の社会の中で、自分の将来を考える材料がなかったことも確かです。母は、日本語は話せても読み書きはできません。14歳で来日した彼は、高校を卒業したので基本的な日本語力はありますが、新聞を読んだり、自治体の広報誌を読んだりする力はありません。家族の中に彼の社会復帰を支援する人がおらず、彼も自分で情報を得ることができなかったために、長年引きこもりを卒業できなかったのです。

 最初に躓いた時に、相談にのってくれる人がいたら、もしかしたら彼の人生は違っていたかもしれません。また、その後、彼の社会復帰を促すような情報を提供してくれる人がいたら、もっと早く引きこもりを卒業できたかもしれません。

 様々な背景をもって生活している人が、それぞれ平等にチャンスを得られるようになると、もっと日本はダイナミックで面白い国になるのではと思います。

 


# by tanpopo-office | 2011-04-17 01:50 | 子ども

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 春4景  

我が家近くの春の風景4つ
でも、原発被害者は故郷の花を再び見ることを許されない。
悲しくてどうしようもない。

菜の花畑とすみれ




                    
                             

 
一本桜








歩道の花壇 








お地蔵様とすみれ

# by tanpopo-office | 2011-04-13 21:50

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 帰国した人に、日本に戻ってほしいとラブコールを!  

 子どもさんの保育園入園申し込みの手続きの支援を依頼された中国人女性のお宅を訪ね、調理師であるパートナーが作ってくださったお昼をご馳走になりました。

 ご夫婦の故郷である福建省の料理をいただきながら、話題はやはり地震のことになりました。その女性は、地震はすごく怖かった。今でも、毎日家が揺れている気がして怖いと言います。地震の後、とても帰国したかったけれど、昨年10月に仮放免を許可されて家に戻ったばかりのパートナーを置いては帰国できないと思いとどまったそうです。

 しかし、日本に留まると決めた後、日本での辛い経験を次々と思い出し、毎日泣いているそうです。昨年2月に夫が警察に逮捕され、毎日4歳の子どもの手を引いて入管に通ったこと、山田電気で買い物をしようとレジで並んでいたら中国人は帰れと怒鳴られたこと、子どもの保育園入園申し込みのために、一人で三回役所に通ったけれど、話も聞いてもらえず帰されたこと、などのことを堰を切ったように私に話します。
 
 さらに、彼女を辛くさせたのは、夫の母からの電話でした。落ち着くまで1ヶ月でもよいから帰って来て故郷で休み、また日本に戻ったらと毎日電話があったそうです。夫は、まだ日本に在留することが許可されておらず、帰国する場合は、日本への再入国許可は出ません。しかし、どんなに説明しても、入管法の知識がない母は理解せずとても困ったと、彼女は言います。

 今回の震災で帰国した外国人は20万人と言われています。その中でも中国人が一番多く、9000人という情報が流れています。まだ震災帰国者の正式統計は発表されていないので正確な数はわかりませんが、数多くの外国人が帰国したことは事実です。震災から1週間くらいの間、東京入管の再入国審査窓口は大混雑し、入管の建物に入るのに数時間を要し、手続き終了まで丸一日かかるという状況でした。

 そしてそうやって帰国した人の中には、その女性のパートナーのように在留資格のない人も多くいました。彼女は、「ビザがないと日本に戻れないのだけど、何度もお母さんから、少しの間だけ帰って来てと言われると、また日本に戻れるような気になってしまうんだよね」と言います。日本に戻れないかもしれないということは大体わかっていても、震災での恐怖に加え、日本での生活の大変さが帰国へと駆り立てのだと思います。

 昼食後、その女性と子どもさんと一緒に役所に行き、入園申請手続きは簡単に終わりました。手続き終了後、対応してくれた職員の方に、彼女は今まで3回もこの窓口に着たのに、まったく受け付けてもらえなかったことを伝えました。その職員の方は、今後は、そのようなことがないようにすると約束してくれましたが、一方で、「大体、外国人の人は通訳と一緒に来るので、日本語が不自由な人に対する対応は慣れていない」とも言われました。

 被災地では多くの外国籍住民が地域の経済を支えています。被災地の外国人登録者総数は、約112、000人です。そのうち、研修生として漁業関連会社や農場で働く人が多い中国籍者は約38,000人、高齢者の多い被災地で介護職として働いたり、日本人と結婚している人が多いフィリピン国籍者は約14,000人、また、主に工場労働者として働いているブラジル人は13,000人fです。オールドカマーの韓国・朝鮮籍の人も多い地域で、韓国・朝鮮籍の外国人登録者は約17,000人います。

 首都圏の生鮮食料品供給地であり、日本全国の工業生産を支えてきた被災地の経済にとって外国籍の労働力はなくてはならない存在です。また、首都圏でもコンビニやエスニックレストランでで働く若い外国人の姿を見かけなくなりました。首都圏の工場でも、安い賃金で働く外国人労働者がいなくては経営が成り立たない企業がとても多いのが現実です。

 言葉が不自由な人でも、不安なく手続きができるような行政の支援体制が充実し、レジで並んでいる人を傷つけるような外国人差別の発言をする人に対して、店のスタッフが直ちに注意するような、そんな魅力的な日本の社会を作り、帰国した人がまた戻ってきてもらわなくては日本の経済は破綻します。

 新しく生まれ変わった日本を作る努力をし、震災後に、日本を見限って帰国した人に、また戻ってきてくれるようにと、ラブコールを送りたいと思います。


# by tanpopo-office | 2011-04-04 19:59

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 地震はどこでもあるよ  

 昨日の夜、停電中に携帯がなりました。3月の初めにフィリピンに里帰りした人からです。飛びっきりの元気のいい声で「昨日、帰って来たの!」と言われました。

 えー、地震の日本にわざわざ帰って来たのと、驚く私に、地震はどこでもあるよと言います。帰りたいという外国人からのパニック電話に追われていた私は、その声に元気付けられました。

 昨日は二回目の夜間停電でした。最初の夜間停電が地震の3日後の月曜日であり、まだ大きな余震が続く中、私の家に1本しかなかった懐中電灯だけが頼りの心細い夜でした。しかし、昨日は、名古屋に住む義弟が送ってくれた明るいカンテラがあり、さらに100円ショップで買った小さなカンテラも加わって明るさは充分。それに湯たんぽにもお湯をいっぱい入れ、準備万端整えて、3時間の停電を迎え撃つ覚悟でした。
 
 ところが、停電はあっけなく、きっちり1時間で終了してしまいました。暗闇は、首都圏の私たちに電力を供給する原発の被害に合った福島の人たちのことを思う貴重な時間でした。もっと長くてもよいと思います。

 節電のためにエスカレータは止まり、ショッピングモール内の暖房は効かず、コートが脱げなくなりました。多少の不便のおかげで、被災地のことを忘れずにいられます。また、あまりに便利で快適な生活を見直すよい契機になりました。

 一方、震災の影響で職を失ったり、採用取り消しになる人が続発していると報道されています。また被災地でなくても、計画停電による作業量の減少で派遣切りにあう人も多いと報道されています。直接の被災者だけでなく、本当に多くの人が震災の被害に合っています。

 また、被災地では、外国人の窃盗団がいるというデマが飛び交っているそうです。根拠のないデマのおかげで、差別に苦しむ人がいるのではと心配です。

 地震はどこでもあるよといって日本に戻ってきてくれた人が、戻ってきてよかったと思える国にしたいと思います。日々、仕事ができることに感謝し、人々の幸せつくりの仕事を丁寧に一生懸命していきたいと思う今日この頃です。

# by tanpopo-office | 2011-03-27 00:47

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